なすところを知らざればなり

http://sankei.jp.msn.com/photos/affairs/crime/100802/crm1008021420016-p4.jpg
会員制サイトに載っていた「さな」の写真の黒い大きな瞳には、サトゥルヌスの表情にうかんでいるのと同じ恍惚と恐怖が映っているように感じた。
ある児相の人の話しとして、今回の事件は母親のバーンアウトだという話を又聞きした。
その児相の人は、起こるべくして起こった事件だと考えているようだった。
専門家が見ればわかるような要因は何重にもあった。
下村被告自身がきちんとした養育の経験がない(ラグビー一筋の父親と母の離婚)。離婚の前は子どもたちは旦那の親が面倒を見ていて、下村被告はほとんど子育てをしていなかった。風俗につとめる前の名古屋の飲食店は保育付きの住み込みだった。そこを出て一人暮らしをするようになって、初めて自分だけで子どもと向き合わなければいけなくなった。(3歳くらいまではとくに手のかかる時期で、一人で育てるのはものすごくたいへんだと思う。)風俗という強い精神的なストレスにさらされた。そこで燃え尽きて、やんなってなかったことにしてみた、そういうことなんじゃないかと言われれば、たしかにそうかなと思う。
すべての母親が、自分の命にかえても子どもが大切ってわけじゃない。
子どもがきらいな親もいるし、人全般と距離がうまく測れない親もいる。そんな親はどこにでもごまんといる。
子育てはかなりたいへんだし、子どもができたからといって、親が必ずしも大人になれるとは限らない。
自分も、健全でまともというわけではないけど、何かに責任を押しつけたいとは思わない。下村被告が悪いとか、児相が悪いとか、そういうことだけでは何かこう釈然としない。
(「臨検」は慎重にって意見もどうかと思うし、「臨検」の名目で権力の介入を容易にするのも恐い。)
ただ、どうしたってもっと赤ちゃんポストがあったほうが、子どもが幸せになるチャンスは増えるんじゃないかと思う。1カ所しかないってのは少なすぎるし、つまんねー理由はいいから、もっと支援して、せめて2桁は設置したい。
心から、子どもたちの魂に平安が訪れんことを。

誰も知らない

べつに虐待をしたいという気持ちは断じてないのだが(たぶん虐待する親の大半は同じ気持ちだろうが)、自分の子どもを大きめの段ボールとかに閉じこめて、どれくらいで我慢できなくなるのか、どんな表情をするか、たしかめてみたいとまで考えた。
そんなことをしても仕方がないのだが、できるだけリアルに二人の子どものが感じたことを知りたい、自分の子どもに(少し心配になる程度の範囲で不安になってもらって)ごめんねと謝りたいと、なんだか妙なシナリオまで考えてしまった。
実際にいまもそういうことを絶対にやらないと決めることに強い意志を必要としている。
なぜこんなに心をかき乱され、強く惹き付けられるのかわからなくて、ここ数日苦しんでいることを連れ添いに告白した。
「それはあなたが虐待されて育ったからなんじゃない」というのが彼女の答えだった。
それで、なんとなくわかったような気になった。
少なくとも、二人が死んでいく姿のどこかに救いを求めていたということがわかって、やみくもに同じ場面を繰り返す苦しさを脱することができたのは、この言葉を聞いた後だった。
自分が虐待を受けて育ったという自覚はまったくない。
ただ、お父さんとお母さんがいてなかよし、安心とかいうような幸せな世界ではなかったと思う。
でもそれが普通で、当たり前で、みんな似たようなものだと思っていた、
ただ、仮にみんなそれなりに家族に問題があって、不幸だったとしても、みんなそうだからそれでいいってことではないことには思いもよらなかった。
それしか知らなかったから、それが標準だと思っていたけれど、誰でも、もっと幸せになっていいんだとは思ってもみなかった。
幸せは、しょうがないとかそういう想いで作れるようなものではなくて、努力し続けて作るもののようだが、そういう発想はまったく持っていなかった。壊れていくのならしょうがないくらいに考えているふしはあった。
話が逸れたが、虐待を受けた子ども特有の心を自分も持っているらしく、その心が、閉じこめられた二人の子どもに対して異常な関心をむけていることがわかった。
どうやら、自分の一部はいまもそこに閉じこめられていて、それを発見しなければいけなかったようだ。

ドグラ・マグラ

大阪西区の子どもが二人閉じこめられて餓死させられた事件を知ったとき、一番はじめに感じて、いまも脳裏を離れないのは、二人の小さな子どもが餓死するというまったく理解できない出来事に対する恐怖だった。
ネットでもいろいろな反応があったけど、いまいちぴんとこなかった。
若いからどうとか、ほとんど根拠がないし、ソーシャルネットがどうとか、いまさらだろうし、下村被告の父親がラグビーの名監督で、それだけで下村被告の養育環境に問題ありなんだろうし、現段階では児相にできることには限界があるし、何か対象を見つけて、それのせいにするとか、そういうことには何の関心もなかった。
1歳9ヶ月と3歳の子どもが、「ママー、ママー」と叫び続け、しっことうんこまみれになって、赤ちゃん特有のふくふくとしたほっぺがそげ落ちて、のどがからからに渇いて、熱にうなされながら、真っ暗な部屋で母の不在という恐怖のなかに、どんなこと考え死んだのかを想うと、声にならない嗚咽で心がまっ白になってしまう。
15平米のワンルームマンションをのぞいていたら、気がつくと自分もその中にいて、出られなくなってしまったように感じている。
何度も何度もワンルームマンションに仕掛けられた監視カメラの視点になって、子どもたちが泣き叫び、衰弱し、弟が動かなくなり、姉が弟をなぐさめるようにして死んでいく光景を、仕事中もずっと、頭の中で再生し続けてしまっていた。
それはぜんぜん気持ちのいいことではないのだが、強迫的にやらざるをえなかった。
子どもたちがどんな気持ちだったのかわからないと(それは絶対にわからないし、わからないほうがいいに決まっているのだが)、自分が救われないように感じていた。

ゴヤの連作「黒い絵」

ゴヤについて、正直そんなに詳しいわけではないが、黒い絵の「わが子を喰らうサトゥルヌス」がとても好きだ。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/77/Saturno_devorando_a_sus_hijos.jpg
できたら引き延ばしてダイニングに飾っておきたいくらい好きだ。
姿見の隣に貼って置けば、毎日自分の狂気の程度が確認できて、安心できるんじゃないかと考えている。「わが子を喰らうサトゥルヌス」を見ているとなんだかとても心が落ち着く。
サトゥルヌスの瞳にうかんでいるのは、自分が何かとんでもないことをしてしまっているという予感(本人はすでに自分が何をしているかわからないため)、恐怖と不可分の恍惚だ。
サトゥルヌスの黒く塗りつぶされた股間には、勃起した性器が描かれていたということだが、禁じられたことや非日常的な暴力にはどこかしら人を恍惚とさせるところがあることはまちがいない。
禁じられたことに恍惚とし、自分に怖れおののいているサトゥルヌス。サトゥルヌスは人ではないが、この人もほんとは怖いんだなという普通の反応が、とても安心させてくれる。

一つの教室のなかに、給食を食べている子どもと、給食が食べられなくて、水を飲んで空腹をまぎらわせている子どもがいる

東村山の小学校や中学校に行って確かめたわけではないので、これが事実なのかどうかわかりません。
ネットで調べた限りでは、そういう書き込みがぜんぜん見つかりませんでした。
でも、もし事実であったとしたら、それが東村山だけではなくて、調布市や、日本の他の場所でも、そういう風景が日常化しているのだとしたら、それはちょっと受け入れがたいものがあります。
子どもがお腹をすかしているのって、世界的に見たら、日常的な事なのかもしれませんが、もう日本でもそれを日常として受け入れなければ行けないようなところまできているのでしょうか。
高速自由化なんてしなくてもいいから、子どもに給食を出してもらいたいと思います。
自分にも子どもがいるので、自分の子どもがお腹をすかして我慢していることを想像すると、耐えられないものがあります。
私も家が貧しかったので、子どもの頃、たまに食事ができない日もありました。
といっても、戦後のゆとり世代なので、何日も食べられないということはなく、たいした飢餓感や危機感もなく、それが悲劇的なことには感じませんでした。
それでも、ほんの1食抜いたりしただけでも、お腹がすいて、何か食べたいなーという感じとか、なんで食べられないのかとどうどうめぐりをするせつない感じは、ありありと思い出すことができます。
ネオリベがまちがっているとか、それ以前の問題として、子どもは親を選べないわけですから、どんな子どもでも平等に、お腹いっぱいになる機会をあたえることに税金を使うのは、社会の義務なんじゃないかと思います。世界中にそういう願いが拡がればいいとも思います。

地球のハラペコを救え、みたいなサイトを紹介して終わろうかと思ったら、flashばりばりで、イメージも表層的でつまらないサイトだったのでやめます。本家のWFPのサイトのほうが、メッセージをうまく伝えていると思います。

WFP 国連世界食糧計画 | WFPの活動 | 学校給食プログラム

http://www.wfp.or.jp/activities/sfp.html#ac

学校給食は、とくにこれからの時代、戦後すぐと同様に日本になくてはならない制度だと思います。
給食費前払い制度を考えた人は、自分がどんなに最低な、命を軽んじることをしたか、真剣に考えてみてください。
頭は悪くないんだろうから、廃止するためにはどうしたらいいかよく考えて、残りの人生のすべてをつかってでも、つまらない制度を廃止して、すべての子どもに無償で給食を提供するために働けば、まだ間に合うよ。
あと、プリペイドカードとか、ランチボックスとか、そういうシステムとか提供している業者の人も、あなたが人の親なら、いますぐそういう非人間的なことに荷担するのを辞められないかどうか、自分の人生を賭しても考えるべきじゃない?

東村山市をはじめとした給食費前払い制度は最悪の生権力である

なんだか勢い込んだ見出しですが、ちょっとフーコーっぽくしてみたかっただけです。
アーキテクチャとか問題にするなら、まずはこういうところで闘おうよって思う。

茨城県市議会議員の根本光治さんのブログに、東村山市給食費前払いについての紹介がありました。

滞納問題に関しては、小学校は直接現金徴収方式、 中学校では、前払いプリペイドカード方式のため、 これまで特別な対応をしなくても滞納が無いとのことでした。

http://blog.goo.ne.jp/edo8000/e/452359252e3d34a833b79295c6739da7

根本光治さんがどういう考え方の持ち主かわかりませんが、個人的には、市議会議員たるもの(共産党の肩をもつわけではありませんが)調布市議会議員のいび匡利さんのような見方をしてもらいたいと考えています。

ところが、調布市では、給食費を払ってなければ申し込んでいないと見なして給食は出さない、したがって給食費の未納はない、ということになっているのです。

http://05027858.at.webry.info/200906/article_2.html

東村山市調布市だけではなく、全国で給食費前払い制度を実施している自治体はずいぶんとあるらしいです。
でも、やっぱりこの制度は、給食費の未納をなくしたいってことが先にあって、子どもに食事をさせるという給食本来の目的を見失っているように感じます。
いかにも官僚的というか、子どもの命より給食費のほうが大事だという発想の人が思いついたんじゃないでしょうか。

Wikipediaには、「発展途上国における学校給食」という項目があります。

発展途上国においては、子どもが学校に行くことが困難な場合も多い。日々の食事が満足でない状況で、お弁当をもたせて学校に行かせるようなことが難しいからである。そのため、WFP(国連世界食糧計画)では、学校での給食事業を行ない、子どもの栄養不良を改善し、さらには親たちにも食事のために子供を学校へ行かせようと意識させ就学率を向上させている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%A6%E9%A3%9F

これは、「お弁当を持たせて学校に行かせるようなことが難しい」というより、子どもが働いていたり、親や家族に子どもを学校にやる余裕がまったくないから、「学校に行くことが困難」なんだと思いますが、これって、もういまの日本の状況と同じなんじゃないでしょうか。

日本にも貧困が拡がっている証拠として、給食費の滞納や未納が話題になる

ほんとうは払えるのに、親のモラルの問題で給食費を払わないという観点から論じられることが多いように思いますが、そういう議論は本質的ではないと思います。
親が給食費を滞納しているのに子どもが給食を食べている。給食費をきちんと払っている親がいるのに、払っていない親もいる。生活保護を受けていたって、払おうと思えば払えるはずだ、けしからん的な話ですよね。
子どもが給食を食べられるという前提で、好きなだけそういう議論をして、いかに給食費を払わせるかみたいなことをやるぶんにはいいと思います。
でも、親が給食費を滞納しているせいで、子どもが給食を食べられないとしたら、どうでしょうか。
ネオリベ的な世相が支配的なので、それは当然だとか、仕方ないよねみたいな方向に流されかねませんが、ここは議論以前の問題として、考えるまでもなく、どんな子どもでも学校給食を食べられるようにするべきだと思いますね。
子どもが給食を食べられないという実態があるなら、滞納がどうとか四の五の言ってないで、まずは、おなかいっぱい子どもに給食を食べさるのがさきでしょう。
そのために必要なら、無償提供にして、その財源は教育委員会とか校長の天下りとか、そういうところで無駄にかかっている税金でまかなうのが先だと思います。
沖縄返還の密約も大事かもしれないですけど、給食についての1964年の凡例ってやつを覆して、学校給食は生徒の基本的人権であるくらいにしてもらえないですかね。