誰も知らない

べつに虐待をしたいという気持ちは断じてないのだが(たぶん虐待する親の大半は同じ気持ちだろうが)、自分の子どもを大きめの段ボールとかに閉じこめて、どれくらいで我慢できなくなるのか、どんな表情をするか、たしかめてみたいとまで考えた。
そんなことをしても仕方がないのだが、できるだけリアルに二人の子どものが感じたことを知りたい、自分の子どもに(少し心配になる程度の範囲で不安になってもらって)ごめんねと謝りたいと、なんだか妙なシナリオまで考えてしまった。
実際にいまもそういうことを絶対にやらないと決めることに強い意志を必要としている。
なぜこんなに心をかき乱され、強く惹き付けられるのかわからなくて、ここ数日苦しんでいることを連れ添いに告白した。
「それはあなたが虐待されて育ったからなんじゃない」というのが彼女の答えだった。
それで、なんとなくわかったような気になった。
少なくとも、二人が死んでいく姿のどこかに救いを求めていたということがわかって、やみくもに同じ場面を繰り返す苦しさを脱することができたのは、この言葉を聞いた後だった。
自分が虐待を受けて育ったという自覚はまったくない。
ただ、お父さんとお母さんがいてなかよし、安心とかいうような幸せな世界ではなかったと思う。
でもそれが普通で、当たり前で、みんな似たようなものだと思っていた、
ただ、仮にみんなそれなりに家族に問題があって、不幸だったとしても、みんなそうだからそれでいいってことではないことには思いもよらなかった。
それしか知らなかったから、それが標準だと思っていたけれど、誰でも、もっと幸せになっていいんだとは思ってもみなかった。
幸せは、しょうがないとかそういう想いで作れるようなものではなくて、努力し続けて作るもののようだが、そういう発想はまったく持っていなかった。壊れていくのならしょうがないくらいに考えているふしはあった。
話が逸れたが、虐待を受けた子ども特有の心を自分も持っているらしく、その心が、閉じこめられた二人の子どもに対して異常な関心をむけていることがわかった。
どうやら、自分の一部はいまもそこに閉じこめられていて、それを発見しなければいけなかったようだ。