blogを書くこと

少し先の話になるかもしれないが、新聞や本みたいなものはなくなると思う。
新聞や本がもっている機能がなくなることはないと思う。でも、著者がいて、編集者がいて、出版社があって、著作権があって、そこから収入を得て、紙という物質に落としてという部分は変わらざるを得ないだろう。
ニュースとか、何かを考えるためのヒントとしての情報は、ネットから得られるようになるだろう。
それでもオーソリティーという概念やソースの信頼性が持つ価値は存在するだろうから、そこを目指していまからでもウエブで活動を始めることは、必要だ。
自分は、大学でメディア論や社会学を学んだ。
それを活用する術が、ずっと既存のメディアにしかないと思いこんでいた。
そーではなくて、ディスプレイと1本のケーブルの先でも、同じ力を持つことができる。
電話がメッセンジャーになり、喫茶店SNSになり、媒体がデジタルに特化しているだけで、必要とされる能力は変わらないのだ。
人の関心を喚起して、動員するための方法論は、依然として有効である。ただ、リアルな人が来るか、デジタル化された人格が参加するのかのちがいはあるだろう。
暮らしの手帖は、広告を載せない。
でも、googleの広告収入モデルは、誰もが消費し消費されざるを得ない資本主義の社会の中で、広告と同時に民主主義の多数者による選択という原理を採用しているという点で、フェアなのかもしれないと考えている。
民主主義の原理は多数決、多数者の正義ということだ。純粋に数の問題で、正しいか間違っているかよりも、どれだけ多くの人が生き残れるか、どれだけ多くの人の満足を得られるかというところにある。
そこにマイノリティーの視点とか、衆愚政治という考え方はない。むしろ、衆愚であっても大勢がよしとすれば、少数者による正義を実現するよりもよしという発想が根本にはある。
実際はどうなのか?実際は、富める少数者によるその他大勢の統治政治が、日本におけるモデルとなっている。
それは、ビックブラザーからは遠く隔たっているようでいて、構造的には同じようにも思える。
たぶん、東京の最下層、台東区のことを考えてみれば、よくわかるのかもしれない。
ただし、やはり広告を受け入れて、かつ正しいことをするのは、中立のプロバイダには可能でも、一つのコンテンツには難しいだろう。
可能性があるとすれば、正しいことなのに夢を見させてくれるという言葉の意味するところにヒントがある。
夢は人をいい気持ちにさせる。それは魅力的なコンテンツだ。
夢という形をとって、その中に正しいものを入れていく具体的なモデルを考えなければ。