亀も空を飛ぶ

ときどき何もかけなくなることがある。
年末からいままでがそうだった。
いろんな刺激に反応してしまって、書きたい気持がムラムラっとたちのぼっては蒸発してしまうかのようだ。

新橋は、大塚英志とはつながっているかもしれないが、佐藤亜紀とはつながっていないように思う。
大塚英志は東京埼玉千葉神奈川、地方都市、出版関係者や言論に興味のある社会人、大学生、日本の論壇を研究対象としている外国人研究者、中高生にまで広がっているかもしれないが、佐藤亜紀を読むのは誰なのだろう。少なくとも新橋で読んでいる人はほとんどいないはずだ。ではヒルズにはいるのか?ヒルズで佐藤亜紀を読んでいる人は、ちょっと想像しにくい。ではどこにいるのか?

子どもの頃は、賢い人というのはエライ人と同じ意味だと思っていた。
大学生くらいになってようやくそれが比例するわけではなく、ときに反比例することがわかるようになった。
いまは自分も大人になって、個人にできることの限界をわきまえ、社会に何かを求めない人が賢い人だということがわかるようになった。
あたりまえのことかもしれないが、社会に希望を持つということが青いということなのだ。
それでもチェンジメーカーへの希望が捨てきれず、場違いな場所へ迷い出てしまった子どものような気持で西新橋の交差点にたっている自分を発見することがある。そんなあまえた気持でいていい年ではないのだが。

無印とユニクロを、中国という植民地の状況を知ってなお愛さざるを得ないマスプロダクトジャンキーの自分としては、孤高の芸術とか小難しい批評理論を目にしてもため息をつくしかなく、受験参考書のようにわかりやすい大塚英志のほうを好ましく感じてしまう。
中国の人をこき使って作らせた服でないと楽しめないほど文化的に貧困な状況では、徹底的にわかりやすくして、とにかく少しでもボトムアップを目指すしか、抵抗する手段がない。商店街の本屋の勉強好きな子どもが考えそうな戦略で、ぼくは好きだ。
だから、もし投資銀行のコンサルとか、プライベートバンクの役員が佐藤亜紀を読んでいたら、けっして佐藤亜紀を読みたいとは思わないだろう。
でも愛読書欄に佐藤亜紀と書いているそういう人は見たことがない。自分がそういう人たちとちがうクラスにすんでいるだけなのかもしれないが…。

いま佐藤亜紀の「小説のストラテジー」を図書館で借りて読んでいて、その粘り強くて緊張感のある思考にシビレている。



平行してチャールズ・ストロスの「アイアン・サンライズ」も読んでいるが、「シンギュラリティ・スカイ」で作者のスタイルになれたせいか、これは通勤電車をやり過ごすためのパルプフィクションとして消費しているだけかもしれない。
本当におもしろいのかと聞かれたら、“スペオペとしては”抜群にと答えざるを得ない。



あとグレッグ・イーガンの「ひとりっ子」も読んでいるが、これは購入した。表紙もイケテるし、イーガンだ。見かけたらすぐに買わざるを得ない。
でも途中まで読んで放っている。再録もあるし、いままでの短編集の中ではたぶん一番濃ゆい。アイデンティティ汁が濃厚すぎて、続けて読みたくなくなってしまう。ルミナスとかがいい。あれ以上濃いのはタイプじゅないらしい。

特筆すべきは、バフマン・ゴバディ監督の「亀も空を飛ぶ」だ!
この映画は見ていないなら、絶対に見た方がいい!もちろん今年のベスト1で、岩波ホールで上映されたのは一昨年だから、一昨年見た映画でベスト1だったテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」と旅と比べても遜色ない、すばらしい作品だ。



見たのは先週、池袋文芸座のアジア映画祭で。
彼女が見たいというので、てっきり亀が空を飛ぶようなかわいいファンタジーだと思いこんでついて行ったら、口がきけなくなるようなすごい映画だった。
劇場には、なんだか渋い顔のおっさんおばさんしかいなくて、30代以下は皆無だったと思う。なんかおかしいなと思ったけど、しばらくはほのぼのとした感じのアジア映画だったので、キャラメルコーンを食べながらすっかりリラックスして見ていた。
両腕のない予言者の兄と小さな子どもを連れた妹が登場して、兄の不気味な予言が的中して、爆発が起こって、お、ハリウッドセオリー通りの映画なのかとあなどっていたら、映画は突如魔術的リアリズムの世界に突入して…。

イラククルド人がどういう扱いを受けていたか、いわゆるエスニッククレンジング、戦争がどういうものかという内容の意義の重さは量るべくもない。

亀も空を飛ぶ」は恐ろしいほど美しい映画だ。
タルコフスキーやシナリオセオリーをきっちりおさえているという点で、西洋の技術を抜け目なく利用する野心的な作品でもある。
キャンプサイトの空気感、殺伐とした地雷原に立ちこめる霧、ただの水たまりのような池が少女とともに燃え上がったり、兄が強度の痙攣の発作をともってTV映像の予言を見たり、随所にちりばめられた神話的モチーフは、神話的な悲劇の世界を子どもたちが現実に生きざるをえない状況を見事に映像化している。

兄がいたるところに少女を見るシーンでは、思わず背筋がゾクゾクしてしまった。映画でこういう感覚を味わったのはたぶん初めてだと思う。
DVDであのゾクゾクが再現されるかどうかはわからないけれど、DVDになったら絶対に見た方がいいと思います。