仕事帰りの電車で、女子高生がコミュニケーションツールとして携帯小説を利用しているのを目撃しました。

自分にとって小説とは、場所を選ばず、自分と作品、あるいは作者と対峙するだけのいまこの現実からオルタナティブへ離脱するためのツールのようなものです。
でも、今日帰りの電車で見た女子高生は、自分が読んでいるケータイ小説を、一緒にいた友だちにその子の携帯でリアルタイムに同じものを読むことを促し、そこに書かれたキャラクターやシチュエーションについて自分がどう感じたか、何を考えたかを伝えていました。
わたしが受けた印象は、ちょっとボーダーな状況にある知り合いの話を共有して、それをどう思うかについて合意を形成するプロセス、近所のうわさ話をするおばちゃんの井戸端会議的なノリを感じました。
二人の間で交わされる会話は断片的で、どうもヤバイ状況にあるヤバイ主人公とヤバイキャラクターに関する話のようで、個人的にはストーリーは共感できそうになかったです。
ただ、「早く読んで」とか、「ちょっと待って」とか、すごい速度でパケットが消費されていくことがとても印象的でした。
今後コミュニケーションの単位はパケットで計ることができそうです。
最近、ケータイ小説にまつわることをいろいろ考えていたので、今日の出会いはとても印象に残りました。
以前働いていた工場で、インディーズ音楽を好きな女の子が携帯で自分のサイトを持っていて、いま思えばそれが魔法のiランドのサービスだったわけですが、そういうインディーズ音楽を愛好する女の子的な完成に支えられたものだと思っていました。
自分が若かった頃でいえば、銀色夏生の詩みたいなものかなと。
でも、それだとディープラブのヒットとうまく結びつかなくて、これは自分の知っている小説ではないようだが、何なのだろうか?と考えていたら、読んでる人に出会うことができた。
ブログやSNSも、合意形成のためのツールだといわれているようですが、ケータイ小説も、小説というよりは掲示板みたいなものなのかなと。
隣の友だちと見せ合ってコミュニケーションができる、書き込まない出会い系の掲示板、そういうメディアとして考えたらわかりやすいような気がします。

朝は、ぜんぜん別のことを考えていました。
R25の表紙に姜尚中とあるのを見て、なぜ竹田青嗣のほうが思想家としてのキャリアが長いはずなのに、姜尚中のほうが露出が多いのだろうか…。
顔がかっこいい、話し方がソフトで口当たりがいい、つとめている大学の格が違う、在日としてのスタンスもなんとなく姜尚中のほうが垢抜けている、カラオケで井上陽水を強要しないとか、いろいろ理由はあるなー…などと思いながら、結論は少し飛躍して、思想も商品であると。

売れない思想は重要度が低くなるという消費社会の法則で、堅い思想の需要はごくごく少数なのではないかと。
思想の場合、好みやイデオロギー、それを受容する人のポジションもかかわってくるわけで…
単純に差異化のための記号的価値だけではわりきれないなーとか。