パリの憂鬱

まだ、子どもの頃からネットで育ってものを考えていますという若者に会ったことがない。
ぼくの感じている何かは、いまの高校生くらいと真剣に話す機会があったらわかるような気がするので、機会があったら積極的に話してみたいと思う。
華恵ちゃんの小学生日記はちょっと衝撃的だったけど、重松との対談を読むと、ぼくにはとってもできないような推敲につぐ推敲があったようで、そういうのはわかるような気がする。
ペソアの「不安の書」は数週間前に書店で立ち読みして、ずっと気になっていた。
ペソアの働きながら書くというスタンスや断片という手法に興味があった。
なんだかベンヤミンみたい。どうやらボードレールに私淑していたらしい、彼もまた近代や群衆に魅せられたフラヌールのようだ。
まだ解説しか読んでいないが、詩を書く手法として、複数の架空の人格を創造し、スタイルばかりでなく、そのキャラクターの生い立ちまで考えていたというのは、大塚英志の「キャラクターとしての私」に近いのではないかと思った。
大塚英志の「キャラクターとしての私」は、アニメ・マンガ時代の虚構というリアル(うさんさい要約で申し訳ない)を語るための手法だから、ペソアが複数の人格に仮託したものも、同じような地平にあるかもしれないと思う。
今回入手したのは「不穏の書、断章」という「不安の書」より前に刊行されたダイジェスト版。
だって、「不安の書」は出たばっかりで高いし、ぶ厚いから、時間のないサラリーマンはダイジェストでね、って…。