本の読み方がかわることで、知のあり方、教養が人格形成に与える影響もかわるのだろうか?

最近は、本を読む時間と同じくらいの時間をネットを見ることに使っている。
ネットでは、世界中のいま起こっていることを知ることができる。
そこには自分自身というフィルタの限界があるわけで、すべてを公平に神のごとくしれるわけではないということを、かえって痛感させられる。
それでも、めいっぱい関心を広げておいて、リンクをたどっていけば、ネットがなければ決して知ることができないようなことにたどりつけるわけで、それだけでもネットは革命なんだと思う。
でも、自分が学生だったときに身につけた知と、ネットで身につけることのできる知とは、なにか性質のちがいがあることを感じる。
それが何かはまだよくわからない。
自分が学生の頃は、マルセル・モースのことが知りたくて、レヴィ=ストロースコレージュ・ド・フランスに就任した時の記念講演を探して、みすずのバックナンバーをコピーしたりした。
それはいまも普通の大学生がすることなのだろうか。
たぶん、ぼくが学生の頃までは、そういう方法が一般的だったはずだ。
レヴィ=ストロースがモースについてふれていることを知るには、先生に聞くか、みすずの目次を片っ端から読んでおくか、フランス人類学の歴史について勉強するか、そういうアプローチしかなかったように思う。
いまは、携帯でモースとググって、23ページブラウズすればその情報にアクセスできるだけでなく、モースやレヴィ=ストロースの業績のダイジェストをほんの数分で知ることができる。
もう当たり前になりつつあるが、やはり、これもネットの革命の一つなのだと思う。
そういう時間や手間は、ウルトラ・バイオレンスに省略することができる。
前技なしで即本番というか…。