フェルナンド・ペソアの「不安の書」が届いた

ぼくは平均して少なくとも月10冊は本を買うが、9冊は古本だ。
他に図書館で30冊くらい本を借りる。そのうち5冊くらいはリクエスト予約して、買ってもらっている。
購入する1冊の新刊は、会社で使うIT関係の本か、雑誌、めったにないどうしてもすぐに買いたい新刊。
すぐに買いたいのは、ぱっと思いつくところで、グレッグ・イーガンと津田真一wくらいか。
リチャード・モーガンもアリステア・レナルズも図書館で借りて読んで、古書価が落ち着いてから購入する。
小説は、SF以外は極力買わないようにしている。
おもにスペースの問題で、買うにしても文庫で探すようにしている。
でも、文庫を古本で買うときはほとんどブクオフか、古本屋でも軒先の100円均一で売ってるものがメインだ。
文庫は定価が安いからかもしれないが、3-400円でネットで買ってメール便を使っても高いような気がする。
そうまでコストをかけて欲しい本があれば別だが、その本を所有していないと不安だったり、今すぐ必要な本というのはまれだと思う。
本が情報の束でしかないなら、それを所有することにどんな意味があるのか、最近疑問に感じるようになってきた。
それでも、カタイ本や思想書の類はまず所有するところから始めないと読むことができない。
読むのに時間がかかるし、線を引いたり、コメントをつけたり、そういう本を読むのはセックスや食事のようなものだから、借りて済ますというわけにはいかない。
薄いから平気かなとか思って借りて読み始めると、ノートをとったり、線を引きたいところをメモしたりと、かえって手間がかかることのほうが多い。
googleamazonはブックサーチからページ販売を始めているようだが、ぼくはまだそういうものにはなじめそうにない。
所有することに意味を見いだしているわけではないが、紙とペンと同じような気軽さがまだ感じられないからだ。
所有から解放されるのは大いに魅力的なのだが。