選び方を学び直すことが、戦後民主主義のリハビリテーションなんじゃないだろうか?

それでも、エヴァは自己責任という軸でストーリーが展開する。
この部分は10年前から変わらない。たぶんエヴァの前にも自己責任を軸に展開するアニメはあっただろうし、エヴァ以降もそういうアニメは絶えない。
エヴァマジンガーZウルトラマンという視点は外せないけれど、やっぱりガンダムとかだろうか。)
エウレカもそうだし、リヴァイアスとかもそうだったと思う。シードとかもそうなのかな?
いまはちょっと証明的に列記できないけど、少年が主人公のビルドゥングスロマン型のお話は、最近「自己責任」が多いような気がする。
こういうビルドゥングスロマン型のお話が垂れ流される背景には、もちろんそういう思考を要求する社会の存在があるわけだが、子どもから大人になる過程で自己を解釈する物語のかたちとして、自己責任型のビルドゥングスロマンしかなかったとしたら、どんなにがんばっても社会主義的な思考はそこから生まれないとだろう思う。
頭のいいやつは文脈とか関係なく、本質を見抜けるけれど、社会の側に問題を見るのは、いま生きている前提を疑うことだから、ある程度訓練を受けるか、社会に疑問を持つような背景・体験を持たないと難しいはず。
ほんとは選び方を故意に教えていない社会(政策)が悪いのに、それを疑うことを禁じられた自己が形成されてしまっていて、自己責任型のビルドゥングスロマンがそういう自己の補完に無視できない影響を与えているのではないかと思う。
であるとすれば、ほんとうの戦後民主主義リハビリテーションとは、物語の拒否にあるのではないかと。
ほしのこえ」を見たときに、「もっと心を冷たく、強く(だったかな?)」という主人公の決意表明に違和感を感じたのは、そのへんかもしれないななどと独りごちてみました。