今日の新橋は雨だった

駅に降りてから、会社への徒歩の間に、サラリーマンや配送会社の人や開店前のパチンコ屋に並んでいる人たちを見ながら、いろんなことを考える。
例えば、家を購入して、何十年というローンを組む。
月に10万か15万か、収入の半分を持って行かれるような金額で、一度ローンを組んでしまったら、そう簡単に会社を辞めたりできないし、よしんば辞めるにしても同等かそれ以上の収入を得られる次の職場が決まっていることが必須となる。
ある程度広い家に住むことは、子どものためにも必要だ。
子どものため、家族のために、学費を払ったり、生命保険を組んだり、車をローンで購入したり、気がつくといろんなローンで絶対に必要な収入額というのが決まっている。
消費生活を前提とした収入によるクラスの区分というものがここに生じるのだと思う。
家族とゆったり暮らしたいという動機は、贅沢な望みではあるかもしれないけれど、全体としては、自分のためにローンを組んでいるというより、家族のためにがんばっているという感じなのだろう。
圏外に家を購入して、朝早くから夜遅くまで働いて、家ではほとんど寝るだけ、週末も家族と一緒に出かけるような生活をしていれば、そう思うのは当然だ。
そこまで考えて、でもそういう当たり前の考え方が、あとでその人が苦しむのがわかっていても笑顔でローンを組ませるみたいな事態が生じるのではないかと思った。
あたりまえの自分の生活を維持するために、あたりまえのように誰かの不幸を受け入れる。
それを大きな声で否定できるような生活を自分ができているとは言えなくなりつつあるので、強く否定はできないけど、
因果な世の中だなと思います。