アキバ、オタク、ニート、アスペルガー

ここ数日、秋葉原での通り魔事件について考えていた。
容疑者(犯人と書くべきか)には何の思い入れもないが、自分にとってごく身近な場所でとてもショックだった。もしかしたら自分もあの場に居合わせたかもしれないと思うと、いろいろなことを考えてしまった。
ネットで事件当日のレポートをみて感じたことと、それを言葉にすることついてウネウネと考えていた。
たぶん、反発を感じる人もいると思う。考え方が違う人とは議論してみたい。あくまでも私が個人的に感じた印象でしかないので、根拠はない。粉川哲夫先生の日記のように、これは私のための私的な考察であることをお断りしておく。

いまより若い頃、電車で老人に席を譲らないとき、私はこんなふうに考えていた。この老人がいまの不平等で間違った社会を作ったのだ。この老人は戦争にも反対しなかったに違いない。少なくとも積極的に反対し、社会を変えるために何かをなしたわけではない。だから、この老人に席を譲ることは正義ではない。現状を肯定し不平等を受け入れることだ。この老人は敵である。

最近の私はあまりこのように考えない。子どもが生まれてからは、少なくとも妊婦には席を譲るようにしている。
それでも自分がパンクでなくなったとは思わない。老人に席を譲ることはおかしいと考えていた自分の延長線上で、不遇な環境というものは個人に責任があるよりも先に彼を育てた社会に責任があると考るようになった。
自己責任論にはいやな感じがするし、そういうことを信奉する輩に限って電車で席を譲らないのではないか。
ちょっとねじれてはいるが、自分の中では矛盾していない。
営利目的の民間企業でサラリーをもらうようになってからは、会社へ向かう道すがら、自嘲的にブルーハーツを口ずさんだりするだけだ。
そしてナイフを持って立ってた…

なんでも正しいか正しくないかで解決できると思っていた頃は、中上健次の新聞配達のように世界をとらえていたのだと思う。
加藤氏(他人という意味で氏をつけてみる)の世界に対する見方もこんな感じだったのではないかと想像している。
秋葉原に切り込んだ時点で、格差社会の代弁者としてはかなり倒錯しているので、格差社会の代弁者というより、自分の理解できないものが怖い、怖いから破壊したいという、アキバ的でファンタジーな世界に追い込まれていたのではないかと思う*1
正常な思考が働いていたとは思えないが、不遇に甘んじている自分の状況と、彼の中の正義の観念がねじれて秋葉原というハレ的な場所に引き寄せられたのではないかと考えている。
富士の麓の工場で、東京の浮ついた奴らに憤りという恐怖を感じているという状況は、ポアを信じた信徒たちに似ているような気がして、あそこには何があるのかと思った。

もし、職場で明日から来なくていいよと突然言われたら、誰だって冷静な状況認識なんて吹っ飛ぶだろう。だから絶対に派遣先の関東自動車工業や派遣元の日研総業に責任がなかったとは言い切れないはずだ。そういう心理的な状況に追いやった直接の原因を作ったのはその一言だっただろう。
クビという事実を伝えることで今回のような万一の事態がおこっても法的に問題がない言い回しをきっちりとマニュアル的に用意して工場長に言わせているという点で、ものすごい悪意を感じて寒気がした。そんなことがあっても事務的に150人が解雇されるとしたらなにをかいわんやではないか。

ナイフを購入したり、レンタカーを借りたり、計画的に見える行動の内側には、何かが途中で自分を止めてくれるかも知れないという躁的でゆがんだ期待があったのではないか。
世界が自分のことを必要としているのなら、必ず何かがおこって止めてくれる、自分は救われるという考えや、全部かゼロかという極端な思考法はアスペルガー症候群の人に特徴的なものだ。

マスコミで紹介されている加藤氏のエピソードを見聞きしたときにもしかしてと思ったが、小学校中学校時代の卒業文集に、自分が書いたものとほとんど同じようなものを見つけて、やはりこの人はアスペルガー症候群、もしくは社会性の障害と診断されてもおかしくない特徴を持っているのではないかと思った。
私は加藤氏がアスペルガーであってもおかしくないと考えているが、アスペルガー症候群だと断定しているわけでもないし、それが犯罪の直接の原因だとは全く考えていない。
発達障害のサポートに携わっている心理の専門家はどのように感じているのだろうか。発達障害の子どもを持つ親はどのように感じているのだろうか。
もしアスペルガーということになれば、レッサーパンダ事件や酒鬼薔薇事件、電車突き落とし事件のように、またしてもアスペによる残虐な事件としてマスコミが派手に取り上げるのだろう。そう遠くないうちに精神鑑定とかそんな話は出てくるだろう。統合失調症ではないだろうし、アスペルガー症候群は犯罪の免罪符にはならない。
アスペルガー症候群は、社会の敵、危険な病気として表象されつつあるのではないだろうか?

私は専門家ではないので、アスペルガー症候群について、本を読んだり、人から聞いた話を元に自分なりに考えてみたことしか語ることはできない。
今回の事件がアスペルガー症候群だったとしたら、どうすればこのようなことを防げただろうかと考えてみたことを書いてみたいと思った。
ここではアスペルガー症候群という言葉を使うが、ここで意味しているのはカナーが自閉症的な傾向を持った社会性の障害に対して「自閉症スペクトル」と名付けたような意味で、ある程度IQが高くて、それなりに生活することはできるが、どこかしら社会性に障害があるという、軽度の発達障害から重度のアスペルガー症候群あたりまでのスペクトル上の適応障害を意味している。スペクトルという言葉から連想されるように、単一の症状であるというより、傾向に近いため、ほかの症状を同時に持っていることもあるようだが、私はADDやADHDにはあまり詳しくないので、誤解している部分もあるかも知れない。

まず、アスペルガー症候群そのものは人畜無害で、放っておいたら必ず暴力をふるうとか、自ら意図して残虐な行為をなす存在ではない。
アスペルガー症候群がそういった行為に至らざるを得なくなる原因は、本人ではなく、本人を取り巻く環境に原因がある。このことは、本を読まない貧しい親に生まれた子どもと、両親共に大学院を出ているような親に生まれた子どものどちらが犯罪者になる傾向が高いかというような、議論に過ぎないから、環境のせいにしても意味がないと考える人は多いだろう。アスペルガー症候群はかなり手厚い社会的な支援がないと平和に暮らしていくことができないと私は考えている。サポートがないと厳しいと言うことより、きちんとした社会的な援助と理解があるというそれだけで、アスペルガー症候群の人が犯罪に携わってしまうことを防ぐことができるということが重要だと思う。
アスペルガー症候群の人が起こしてしまう不幸な事件の背景には、必ず社会的な支援の不足がある。多くの場合、社会的な支援、地域的なサポート不足のほかに、トリガーとなる要因、失恋や今回のように失業というきっかけがあって、障害が表面化して事件になる。(このあたりはもう少し丁寧な分析をどこかで見つけてほしい。)
いかに社会的な支援を充実させていくかがアスペルガーの人が幸せに暮らしていくための条件となる。
ナイフの購入を規制するのはいっこうにかまわないが、こういう方向への社会的支援の予算を割いてほしい。こういう支援をするためのはじめの一歩として、アスペルガー症候群の診断を精神科医しか下せないという制度を改めるべきだと思う。これは完全に医者の都合、医療保険制度の問題であり、すべての精神科医発達障害について正しく理解しているわけでもないし、診断がつかないとサポートが受けられないことが問題なのだから、特別支援の枠組みを設けて、発達障害について一定程度の理解と経験のある臨床心理士や発達臨床心理士に、アスペルガーの人への支援を提供できる制度を作るべきだ。
私はもっとアスペルガー症候群の人を積極的に増やすべきだと考えている。一説によれば、自閉症スペクトル上に位置づけられる何らかの特徴を持った人は、10人に一人くらいの割合で存在している可能性がある(比率は記憶違いかも知れない)。実際、病気や障害として認定されていないだけで、何かしら社会性の障害を抱えた人が世の中には存在しているが、何かの拍子に障害が表面化しない限り、社会的な問題として表面化しないというだけの話なのだと思う。
割合としては10人に1人はアスペルガーというのがあるべき社会の姿だと思う。
10人に1人の割合で存在する人を病気だとかヤバイ人として特別扱いすることはできないだろう。そういう特別扱いをしない社会的な環境と同時に、若干の特別な配慮が存在すれば、それだけでかなり社会的なサポートの環境は充実しているといえる。そのうえでソーシャルスキルを身につけさせるトレーニングを実施すれば、基本的な体制は整う。

アスペルガーだって、特徴をつかんで理解すれば、避けるべき対象ではなくたんに個性的な人として受け入れることができる。個性的な人から逸脱して、社会から受け入れられなくなる前に個性的な面を発見し受け入れること。
googleトレンドでアスペルガーという言葉を検索すると、事件の起こった時にその場所で局所的にクエリーが上昇していることがわかる。それだけアスペルガーって何?ということが理解されていないのだと思う。
まずは、アスペルガーがたんなる個性的な隣人であり、すでに社会の中に浸透していることを発見し、どういう配慮が必要なのか考えるところから始めればよいと思う。
おおざっぱな特徴としては、人の気持ちを考えない、自分の好きなことばかり話し、嫌なことばかり思い出に残る、視覚認知に優れていたり、記憶力が良かったりする人というのがアスペだと思う。
映画では「モーツァルトとクジラ」や「音符と昆布」などがアスペルガーの人をテーマにしている。
最近では、痴漢を空手で撃退したアイドルの倉持結香さんが過去にアスペルガー症候群と診断されたとMSNのインタビューで答えているのが印象的だった。彼女が成功している背景には、ご両親に理解があって彼女の才能を伸ばす育て方をされたのだと思う。
自分が社会のなかで受け入れられているという感覚や居場所があるという感覚は重要なものだ。
社会の中に自分でその場所を作る能力がそもそもない人から、職場や参加しているコミュニティをう奪うことは死刑宣告に等しい。
社会の中に場所を提供することは簡単なことではないので、解決策を提示することはできないが、政府がニート対策に力を入れているのは、そういうことなのではないかと推測している。ニートも社会性の障害として考えられるのではないか。私も何度か失業保険をもらって履歴書の書き方から面接での受け答え、「会社」というものに違和感を持たないための考え方まで、いろいろな訓練をさせてもらった。ニート対策で身につけさせるスキルは、ソーシャルスキルレーニングと重なる部分が多いように思う。政府はすでに教育政策・社会政策の非を認めてニート対策に力を入れるようになっているのだから、個人に問題があるという考えは捨てて、どうしたらお互いに楽しくやっていけるかを考えるべきだ。
結論めいたものはないが、理解することと、受け入れること、早い段階から社会的支援とソーシャルスキルレーニングを実施することが、アスペルガーの人を不幸な事件に巻き込ませないための方法だと思う。
私はオウムもオタクもニートも、基本的にはアスペルガーの問題の延長として考えている。日本は海外に比べて異質なものを許容する閾が狭いので、海外では問題にならないような軽度の症状を持った人たちが、特別視されることが影響しているという考えもあるようだ。


倉持結香の【ユカ専用ブログ。】(`・ω・´) - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yukakuramoti/

*1:ここでいうファンタジーとは、映画「ヒトラー最後の12日間」で、援軍がくるというヒトラーの言葉を、それは幻想だと将校が突き放したときのような文脈で考えている。アキバが幻想的だと感じたのは、ダイビルのでっかい画面でメイド姿のメガネっ娘が表情を作っているのを見たときで、ピンク色の妄想が「どばーーーっ」と街中に漏れ出てているように感じた。萌えは、その妄想的世界の共通語で、おくゆかしいオタクが自分の性的嗜好を気軽に語れる言語だと考えている