オナニーマスター黒沢を読む

id:jkondo氏と同い年のオッサンとしては、自分がネットを使いこなせるとは思えないわけで、ネットの片隅からいろいろと見つけてきてくれるはてブの機能は素直に重宝していると告白しておきます。
最近はオナニーマスター黒沢を教えてくれたid:guri_2さんのエントリーに感謝です。私が読んだのもyoko氏のマンガ版です。

オナニーマスター黒沢
http://passionate.b.ribbon.to/onamas1.htm

オナニーという青年男子にとってはごく一般的な題材を、感動的な成長物語に仕上げると同時に、「繋がり」という現代的な問題を取り上げた、かなり良質な作品だと思いました。いじめは大人が作っている社会的構造の問題で、当事者の子どもには解決策なんてないので、自分がどうやって別の世界に抜け出して行くかを主題に据えたこの描き方でいいと思います。
とくに第二十五発「繋がり」2のシーンが圧倒的でした。
伊瀬カツラ氏の原作小説から引用します。
Neetel Inside
"僕は、トイレの壁に手を当てた。
冷たいタイル張りの壁。煤けて、汚れて、光沢を失っている。
この壁に、何度精子をぶちまけたかわからない。
何度、僕の、弱さを。
「この狭い個室の中なら、手の届かない人にも手が届いたよ。誰も僕を嫌いになんてならなかった」
「黒沢くん…?」
「どのグループにも属さない、孤立無援の自分を作り上げて……結局僕は、誰にも嫌われたくなかっただけだ。そしてこの個室の中で、人との繋がりに溺れていた」"
http://neetsha.com/inside/main.php?id=429&story=21

「繋がりの社会性」とか、何が言いたいのかいまいちよくわからなかったのですが、ここに書かれているようなことかなと勝手に合点しています。
誰にも嫌われたくないけど、繋がりに溺れたい感覚、この場合、オナニーでネタにする妄想ですが、ちょっとスリルがあるけれどアーキテクト上は絶対的に安全、かつ女性の性的な残り香が漂う女子トイレとという個室で、おもに相手を奴隷的に服従させるプレイ―セックスではなくオーラルセックスであるという部分もポイントだと思うのですが―を要求して、妄想上のエイリアスに対して射精する、そういうコミュニケーションへの欲望が繋がりの社会性なんじゃないでしょうか。
女子トイレをネットに、オナニーをtwitterに置き換えたら、ネット依存症者のわれわれの状況に近いような気がします。
ポイントは「服従」ってところだと思います。「承認」は闘争の結果得られるものだと思うのですがで、そこをすっ飛ばして「服従」させたい欲望が先に来て、オナニーで闘争を代替して繋がりに溺れてしまう、そしてそこから出られなくなる…。
闘争は、この作品の後半にもかかれているように人を変えてしまう重い道程ですからね…。
このテーマはヘーゲルラカンだけじゃなくて、発達障害の観点から再考してみたいです。
個人的には、結婚して子どもを作るかどうか思案している須川、アニメーターとして挫折を感じているピザ太、ドラッグに溺れる内藤とか、外側に出口の見えない状況で展開してもらわないと30代の希望にはならないかなと思いますが…。
でも、十代から二十代の閉塞感を持った人たちへの出口を示す、すばらしい作品だと思います。yoko氏のサイトが1年で閉鎖されてしまうのはとても残念に思います。
黒沢が滝川に貸した本はなんだったのでしょう?長門有希は「ハイペリオン」をキョンに貸してましたが、「カズムシティ」だったら滝川萌え!ということで終わりにしておきます。