もうすぐセカンドライフが上陸するらしい

数ヶ月前に知ってから、じゃあ「スノウ・クラッシュ」をもう一度読み直して、メタヴァースというメディアについて考えてみようかな…と、考えてからちょっと時間がたってしまった。
もう1月くらい前になるが、「スノウ・クラッシュ」を読み返しながら考えたことを書いてみたいと思う。

初めて「スノウ・クラッシュ」を読んだのは早川で文庫化されたときだから、ちょうど6年前になる。
6年前というと、個人的にはインドから帰ってきて、ちょうどメジャーになり始めた野外フェスにのめり込んでいた頃。

当時はポスト・サイバーパンクって、こういうものなんだと思って読んでいた。

イリアム・ギブスンの初期の作品は、テクノロジーに対する暗い予感、士郎正宗押井守の作品の背景で描かれているような高度なテクノロジーと絶望に満ちた社会を舞台にハードボイルドな、いまから見ると80年代的なロマンスの話だった。
それに比べると「スノウ・クラッシュ」は、キッチュでポップ、マンガ的な設定(主人公はハッカーで世界最強の剣士とか)で、なるほどこれは90年代の雰囲気が書けている、ポストサイバーパンクはこういうマンガ的な方向に行くに違いないなどと考えていた。
たしかに、最近のアリステア・レナルズとかリチャード・モーガンとか、ジャンルは少しちがってもマンガ的なものの影響が見える作品は増えている。
でも、「スノウ・クラッシュ」以降のニール・スティーヴンスンが、ナノテク・スチームパンク(最近早川で文庫化された「ダイヤモンド・エイジ」)だったり、サイファーパンク(「クリプトノミコン」第二次世界大戦時のドイツや日本の暗号を巡る話と現代のシリコンバレーベンチャーがデジタルキャッシュを作る話と交差する)だったり、独特のユーモアは共通するものの一見ことなるスタイルの作品を発表していることから思ったのは、この作家がポスト・サイバーパンクなスタイルを意図していたわけではなさそうだということだった。
それが何なのか、このエントリーを書きながら少し考えてみたい。

「スノウ・クラッシュ」は、71のエピソードで構成されている。

ヒロ・プロタゴニストというフリーのハッカーにして世界最強の剣士とY・Tというスケートボードを自在に駆る配達人が出会うところから物語が始まる。
ヒロは現実では貧しいフリーターにすぎないが、仮想世界メタヴァースでは凄腕のハッカーとして名前を知られている。
メタヴァースを作り、上場して大金持ちになった友人Da5idが正体不明のウイルス、スノウ・クラッシュに感染して意識不明の重体に陥り、このウイルスの正体を探る冒険に乗り出す。
このウイルスの背景には、世界中の光ケーブルを支配するメディア王ボブ・L・ライフの陰謀、ギルガメッシュ叙事詩に書かれた呪術的な力を用いて、現実とメタヴァース両方を支配しようとするライフの巨大な陰謀を阻止するため、ヒロはY・Tと協力して立ち向かう…
ストーリーはそんなような話だと思う。
いつも黒ずくめでひかえめだがうちに激しい情熱を秘めたヒロの昔の彼女ジャニータ、ロシアの少数民族の出身で、核実験で故郷を奪われた巨漢の鯨漁師レイヴン、大戦を生き延び、老いてなお鋭いマフィアのボスアンクル・エンゾ、ほかにも魅力的なキャラクターが登場する。
ストーリーのポイントは、主人公はヒロではなくY・Tだということではないか。ヒロははじめから最後までほとんど変化しない。Y・Tは大きく成長する(この成長する少女と支えるハッカー男性というモチーフはダイヤモンド・エイジでも継承されている)。
続きは、また次回に。次回は小説に書かれたメタヴァース以外のテクノロジーについても具体的に見てみたい。

メタヴァースがセカンドライフによって実現したとすると、アースはグーグルアース、ライブラリアンはアスクジーブスとして実現している。

最後に一つだけ、この小説が書かれたのは1988年から91年頃で、ニール・スティーヴンスンは当初これをビジュアルノベルとして意図していて、そのグラフィックを描くために、この小説を書くために費やした時間より多くの時間をコーディングに費やしたとあとがきにある。
この課程で当時のマックの開発の中枢にいた人たちと親しくなり、メタヴァースの構造を考える際にアップルの「ヒューマン・インターフェース・ガイドライン」を参考にしたと。
メタヴァースは、その意味でギブスンのサイバースペースよりも直接的にパロアルトの影響を受けているといえるかもしれない。