インナートリップ バラード沈んだ世界を読んで

バラードの沈んだ世界を読んだ感じでは、インナートリップとは、現実と自分の内側にあるもう一つの世界とが重なりあって一つの世界になることだ。
始まりは、ハードマン中尉の症状が心の病だと考えていた主人公ケランズが、ハードマン中尉と同じ夢を見るに及んで、ハードマンの内的現実が、人類の大半の内的現実となりつつあることを発見するところにある。
徐々にケランズの見る世界は二重の意味をおびるようになり、気がつくと内的な世界が外界を覆いつくしている。これは、沈んだ世界とは関係のない読者の視点からみれば、明らかに集団幻覚だ。しかし、バラードは沈んだ世界を一人称で丹念に書き込むことで、とても自然で、個人にとっては崇高なものにまで高めている。通常、ここまでの幻覚は社会生活をむしばむわけで、社会生活の存在しない沈んだ世界でも、ケランズは堤防を破壊するという逸脱行為をしているが、気がつくと書かれていない破壊の理由について、なんとなく感覚的にわかる次元へ読者を誘導している。これはとても危険で、ものすごく魅力的な方法だ。
文学とは、それがあたかも存在するように外部の世界を書いて、想像させることなのだとすれば、バラードは狂気を理解させることに充分に成功している。ここには、考え方を変化させる大きな可能性があるような気がする。逸脱行為をすることを理解させることができる手法がここにはある。あるいは、本を読み終えたとき、都会が沈んだ世界に見えるようになる。
その意味で、ニューウエーブは革命的だったのだろう。だが、ニューウエーブで世界が変わっていないことから考えて、見方が変わるだけでは世界はかわらないという事実があるのだろう。
ただ、沈んだ世界のような力強いインナートリップは、硬直した現在の生活にこそ、とても重要なものとなりつつあるように思う。