最近本買いすぎだってばヨ シフト2

思いついたこって、すぐにメモを残しておかないと忘れてしまって、そんなときに限ってなんかいいことを思いついていたような気がして、悔しい思いをします。ここのところ、ずっと何か思いついたような気がして何も残せていない日々が続いています。

27日に神田の古書市へ行ってきました。
購入した本は、タディエ「二十世紀の文学批評」とレイ・チョウ「プリミティヴへの情熱」。タディエは中条省平がいろいろな文学理論のダイジェストととして優れていると紹介していたので気になっていました。レイ・チョウは学生の頃に「ディアスポラの知識人」を読んで衝撃を受けた。ちょっと前に翻訳の出たバーバの議論を「大英帝国の植民地政策」とか、ズバッと斬っちゃうところにシビレル。でも正直カルチュラル・スタディーズの論争系の議論は、エッジすぎてついていけないので、よくわらない。

勢いあまって、30日に八重洲古書センターへ。ヒューバート・ドレイファス「世界内存在」、ちょっと前に出たマルクスコレクション版「資本論第一巻」、コーニッシュ「海の波」を購入。レジで前に並んでいた人が、いかにも会社の重役って感じの人で、サッチャーの伝記やら写真集やらを2万5千円くらい買って、ゴールドカードで清算していた。
う、うらやましい。好きなだけ本が買えて、収納にも困らない生活ができたら、なんだか別世界だなぁと思う。でも、そのために本を読む時間を削って働けっていうなら、本末転倒だからお断りだけど。
コーニッシュ「海の波」は中央公論自然選書というレーベルでぜんぜん知らなかったけど、海の波だけではなくて、砂の波や雪の波についてのとても緻密な観察記録で、個人的にかなりの出物だった。

この間、うえお久光「シフト2」と乙一「GOTH」を読了。うえお久光ヤバイ!このクオリティーを保てているなら、「悪魔のミカタ」も読んでみたい!
ハードカバーだし、てっきり2巻で終わるかと思っていたら、「シフト2」では現実世界と主人公をはじめキャラクターを掘り下げるエピソードが書かれていて、あと23冊は続きそうな感じ。このまま1年に1冊というペースだと、待ちきれないです。
まだまだライトノベルは読み始めたばかりだけど、自分が知っている範囲の読み物の水準として相当なレベルだと思う。中学生とかが読んでもいいものが後に残るというしっかりとした配慮もあるし。
ざっとネットで見た感じだと、人称の入れ替わりとか問題視する人もいるようだけど、「吉永さん家のガーゴイル」とか「灼眼のシャナ」なんかと比べても、そういう技術的な問題は一般的な文学技法の範囲だと思う。どの書き込みも口をそろえて、セラではなく空が「お姫様」だったといっているけど、作者の公式見解でもあるのだろうか?
たしかに「シフト2」では、冒頭から苦悶する「お姫様」が登場して、空はずっとうなされているわけだが、それだけを根拠に空=お姫様なのだろうか?
勇者=鷹生のお姫様=空という図式なら、裕樹にとってのお姫様であるセラは、世界がクリアされるためのイケニエとかなのか?あーなんだか泣きそうな話になりそうで、ちょっと困る。

乙一は、いやになるくらい文章が落ち着いている。個人的にはすすんで読みたい感じの話では断じてないのだが、こういうのが読まれるってことは、日本の家庭もずいぶんブラックノワールな世界になっているというということなのか。それとも、怖いもの見たさなだけ?後者なら健全だけど、こういう刺激がしっくりくるのだとするとちょっと心配になります。

中高生の頃は、シブサワとか読んで、毒殺とか秘密結社とか黒魔術とかデカダンとか、そういうものがしっくりする時期だと思います。でも自分がそういうものとまったく無縁なサラリーマンなせいか、どうもそういうのとは違うような気もします。
今日はカミーユに殴られたシャアの気持ちで締めくくりたいと思いますが、自分の感じている違和感については、今度また考えてみたいと思います。
「これが若さというものか…」