最近読んでいたライトノベルを軽くまとめてみる その1

なんとなく、ずっと気になっていても敷居が高くて手を出せないものがいくつかある。ライトノベルはその一つで、一昨年朝日新聞の文化欄でジャンルの存在を知ってから、翌日には書店へ走って日経BPの「ライトノベル完全読本」を入手してむさぼるように読んでいた。
ライトノベルという言葉が何をさしているのかわかった気になって、ライトノベルそのものはずっと読まないでいた。実際には中高生の頃にいまのライトノベルの源流と考えられている作品、例えば「ロードス島戦記」や「バンパイアウォーズ」などを読んでいたから、そういう世界がまったく想像つかないわけじゃないしと考えていた。
食わず嫌いの原因は、もう青すぎる世界には純粋な夢が持てないことと、最近のライトノベル出身の文芸作家の言語感覚についていけないという感覚があったことのように思う。いまだに西尾維新や舞王城太郎には手がつけられず、「ファウスト」が積読されている。いつかは挑戦するつもりで買ってはあるのだ。
乙一は、名前が引っかかって読めずにいたが、読んでみると異常なくらい普通の文章でびっくりするくらい読みやすかった。
読み手に想像力を要求しない文章だと思う。難しい比喩とか想像しにくい感覚的な表現はほとんどない。ありえない状況さえ受け入れてしまえば、ストイックなまでに平易にされた言葉でシナリオのようなストーリーが展開する。
とってもわかりやすいのだ。内容はとっても気持ち悪いのだが。

ライトノベルには何かがあるのではないかと過剰な期待と恐れを抱いていたが、最近何冊か読んだ感触では、それは杞憂のようだ。
ヘビーなリアルに対するライトなファンタジーという、文学の運動として正当で普通なムーブメントだと思う。大正期の白樺派と運動としては変わりはないような気がする。竹宮ゆゆこ平塚らいてうのようにブルーソックスムーブメントを起こしてもおかしくない。新しい感性や表現もあるが、世界を変える何かが革命的なものがあるわけではない。
大雑把な把握で恐縮だが、埼玉や千葉にヒップホップが必要だったように、現実が嫌いなモラトリアム心性の子どもたちにはこういうものが必要だ。
そうしてすべてのカウンターカルチャーがそうであるように、あらゆるムーブメントは商品としてパッケージングされ、消費に供される。

【ヒットの“共犯者”に聞く】涼宮ハルヒの場合 I
角川書店スニーカー文庫編集部インタビュー
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20061002/111000/

商品としてのライトノベルは、ここに登場する編集者のようなエリートによってきっちりとマーケットとして計算され、押さえるべきものを押さえ、例によって現実からしっかりと目を背けられるように高い完成度で作られている。
商品には善も悪もなく、完成度のよしあし、明確な消費社会のルールがあるだけだ。