むなしさについて

どうしてもほしいフィギュアがあって、何千円もつぎ込んだ後に、やっぱりほしいフィギュアが出なくて、いらないフィギュアの山ができていたりするととてもむなしい気分になります。
「ああ、なんでこんなものに何千円も使ってしまったのだろう…。これだけのお金があればもっと有意義なものが買えたのではないだろうか?お金さえ出せばかえるぷれい・すてーしょなりーのスペシャルエディションとか…」
たぶん、ほしいフィギュアが出たとしても、やっぱりどこかむなしい気分が残ります。
やった!と思っても、同時にそのうちに見向きもしなくって、誇りをかぶっているフィギュアを発見してしまうことをわかっているからです。でも、どんなものでも消費によって手に入れることのできる満足はそんな者だと思います。
それで、今日は、むなしさは価値の喪失だというお話です。
ここのところ、本を読むことや本を入手することがむなしく感じていました。その原因をずっと考えていました。一つの原因として、インターネットを考えていて、本なんて買わなくても、ネットに接続していれば、毎日とても読み切れない量の文章を読むことができます。けっこうハードな思想系のものから、文学全集、本や雑誌ですら扱えないであろうホットな情報まで、人によっては本なんて買わなくても十分に一生楽しめるくらいの品揃えがインターネットから入手することができます。
あと、ネットがやばいなと思うのは、こっちから強く能動的に探しに行かなくても、RSSを登録しておくだけで、それが当たり前に思えるくらい何気なく、いろいろな意見をたたき込んでくれます。各方面の識者のブログを登録しておくだけで、毎日、自分が考え出すことのできるよりもはるかに良質な思考を提供してくれます。レバレッジシンキングってやつです。しかも一人ではなく、十人でも百人でも誰かしらが何かしら切れ味の鋭いことを教えてくれます。
そういう言説をあびるほど甘受していると、何かわかったような気がしてくるし、それでいて何一つ自分の者ではないことに気がついて、自分には何かできるのだろうかと、とても不安な気持ちになります。
焦ってまたRSSを増やしたりすると、さらなる悪循環に陥って、毎日がフィードを追うことに費やされているような気になります。そのうち、フィードの読み過ぎでむなしくなって自殺、フィードリーダーを規制なんて事件が起こってもおかしくないのではないかと。
実際、一日に2000フィードくらい見ると、ウエブ上の一日の出来事の5分の1くらいはカバーできるのかもしれません*1そうやって情報を大量に摂取して、そこからあうトップとして何かを作ることのできる人もいるでしょうし、情報の差異が価値を生むようなフィールドではそれもありかなと思います。
でも、何かむなしい。
本を読んで内容を自分のものにすることは有意義なことですが、検索すればすむようなことを、わざわざ時間をかけて覚えることに価値があるかどうかと考えると、覚えるという行為・時間がむなしいものに感じられることがあります。これを敷衍して、検索すればわかることを考えることに何か意味があるのかと考えると、いまはまだまだ検索エンジンに答えられないことがあるので、ふふんという気分でいられますが、女のこととのつきあい方から、いやな仕事の断り方まで、人生のあらゆる問題を検索が解決するようになると、真剣に考えることに意味があるのか、問われる時代もやってくるような気がしています。
まぁ、そんなことはもうずいぶん前からわかっていたことです。
ここにきて、むなしさを感じることに拍車がかかっているのが、amazonkindleの登場によって、物体としての書籍が限りなくゼロに近づいて、そういう質量ゼロの知識を所有できる可能性が大衆化していることなのだと思います。
個人的には、「知」はブルジョアのもので、自分はそこから簒奪しているんだという思いがありました。同時に、お金のない自分には最新の高級な本は買えない、買えないからついて行けなくてもしがたがない、本を買うことでそのコミュニティに参加できる、本を所有しているだけで賢くなったような気がする。そういう幻想のすべてが無効化されてしまいました。
本当なら、「知」のもっていた物質的な呪縛の鎖が一つ砕けたことを喜ぶべきなんだと思います。日本は再販制度とか東・日販が制度を牛耳っている状況で、DRMのようなものが書籍に登場するのすらだいぶ先の話のような気がしますが、本がネットで落とせて、何百冊でも何千冊でも自由に所有できることは、音楽を解放するよりもはるかに強力な社会変革要因となりえます。
その事実には乾杯をしたい!し、はやくkindleを日本語対応にしてほしい!
でも、自分の中の物質的な「知」に価値を見いだしていた部分、それはいまの自分のほとんどの部分で、たぶん現在の大学院制度とか、社会階級のいくつかを作っている部分と同じものが、そこに価値がないと宣告されることによって、むなしさを感じているのだと思う。
むかし、チベット仏教をかじったときに、生産的な無という概念があることを知った。
戯れとかリラとかは、もう恥ずかしくて口にはできないけれど、これは生産的な無なのだと観られるようになれたら、いま感じているむなしさも、青空のような自由として呼吸できるようになるのだろうか。

*1:後日試算をぐぐってみます。