SFでカッコイイと思う要素について

明日から教習所だから、断片的に下記つなぐ感じだと思う。
ブルース・スターリングの作品がカッコイイと思うのは作品に登場するキャラクターがリバタリアンだからなのかもしれない。
リバタリアニズムについては、池田信夫先生も薦める「リバタリアニズム入門」を。
自己完結的で自己責任を受け入れたキャラクターは、アイデンティティが安定しているように見えるので、アイデンティティ全般および日常生活全般に日々強い不安を感じているわたしにとってはとても魅力的に見えるのだろう。
それはおそらく、それは中学生から万年思春期の大きなオトモダチまで、いまだアイデンティティが確立していないモラトリアムな存在にとっても同じように魅力的に映るのではないか。
全部が全部とは言わないが、アニメのいわゆるクールなキャラクターは、リバタリアンだってことなのではないだろうか。
この場合の「クール」とは、新海誠の「ほしのこえ」で本人演ずる寺尾昇が、長峰 美加子が去ってしばらくして「もっと心を冷たく強く」と自分に求めたものだと考えている。
それ以外の根拠を持つクールな設定、じつは親がすごくて遺伝しているとか、そうあるべくして生まれたとか、そういう遺伝的・血族妄想的な設定は、“土人”が空想したアニメのようで、反吐が出る。
このクールさについては、深く考えてみたいのだが、ちょっと脇道に一度逸れよう。